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​ようこそ、日光テンカラ伝承の地へ

日光市小来川 
テンカラ釣り専用
キャッチ&リリース区間OPEN

1 2024年度解禁期間   2024年3月23日(土)~2024年9月19日(木)
2 入漁券(釣券)    雑魚釣り(イワナ・ヤマメ/二等)

             当日券 1日2000円(現場売り4000円)

             年券       7000円  (組合員6000円)

3 入漁券購入場所    県内釣具店及び各取扱所

            (専用区内の取扱所は下記マップ参照)​        

4 注意事項      

  ·入漁券を購入してから釣りをしてください。

  ·魚は持ち帰らず、優しくリリースしてください。

  ·カエシのない針(バーブレスフック)を使用してください。

  ·ビクなど魚を持ち運ぶものは持ち込まないでください。

  ·テンカラ釣り以外の釣りは禁止です。(リール付不可)

  ·リールのついた竿は持ち込まないでください。

5 所在地及びテンカラ釣り専用C&R区間マップ 

​ お車でお越しの方は「日光市西小来川3393-2 Cafe奏音」を目指してお越しください。

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小来川テンカラ専用キャッチ&リリース区間を百倍楽しむ方法

 景色と魚を楽しむだけでもテンカラ釣り(以下、テンカラ)は十分に楽しい。しかし、地域に語り継がれるテンカラの歴史や人物を知ることで、その楽しみは倍増するだろう。

テンカラファンの皆様には、これから続く物語を読んでいただき、栃木県日光市小来川地域に伝わる日光テンカラが如何様にして現代まで受け継がれてきたのかを知って欲しい。そして、実際に伝承の地を訪れ、地元の人々との交流を通じて、日光テンカラや先達たちの想いを肌で感じていただきたい。これらの学びと体験が、テンカラの楽しみを一層高め、ひいては地域と釣り人を、そして日光テンカラの未来を「つなぐ」ことの一助となれば幸いである。

小来川の日光テンカラをつなぐ会一同より

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​瀬畑雄三

1940年生まれ。青年期、前日光小来川に伝承されていた「日光テンカラ釣り」を習得し、それを独自に継承、発展させ、テンカラ釣りの名手としてその名を馳せる。書籍以外にも、近年ではインターネット動画等を通してYuzo Sebataとして人気を博し、海外にも数多くのファンを持つ。

「新編 渓語り」 著者 瀬畑雄三 発行所 株式会社 つり人社 より

「日光テンカラの先達たち」前日光山地/小来川 

 編集:小来川の日光テンカラをつなぐ会
 

  今は亡き、日光·西小来川の田中順太郎さんといえば、近在ではつとに名の知られたテンカラ師であった。

六十歳代半ばで大病を患った後は渓に立つ日はほとんどなくなったが、孫の勇さんを通じて親戚同様のおつき合いをさせていただいた田中家の親切は忘れ難く、今もって生前の姿が鮮烈によみがえってくる。

そう、順太郎さんこそ、わがテンカラの師でもあったのである。

 

 

 

初めて西沢の居宅に順太郎さんを訪れた日は、月遅れのお盆であった。しばらく雨らしい雨も無く渇水つづきで釣りにはなりそうもない日和だったが、何処で釣ったか、今しがた釣ってきたばかりだというヤモ(ヤマメ)を串に刺し、遠火にかざして焼きあげているさ中であった。

色艶もみごとな尺足らずを頭に、型揃いのヤモ三十尾あまりが、庭にしつらえられた大きな炭火の炉にギッシリと並んでいる。「よく来たない……。今からじゃ釣りはだめだで。夕方、ゆっくり釣って、泊ってけや」

訪ねたばかりの私を、こんな言葉で迎えてくれた。

その日は、順太郎さんの薦めで、勇さんと一緒に夕マズメをねらって轟淵から菅沢出合までのわずかな距離を釣り遡ったが、順太郎さんのねらいが的中し、型のよいヤモを共に七尾ずつ釣りあげた。
 

 実は、この年の五月に所帯を持ったばかりの私にしてみれば、「今夜泊っていけ」とう田中家の親切な薦めも、本来ならば辞さねばならぬ立場にあったが、先刻味わったヤモの手応えの余韻が強烈過ぎて、新妻の待つわが家へついに私を帰さぬ仕儀となった。

 そして、その夜の順太郎さんとの夜語りに聴いた、篭作のテンカラの話はもちろん、若き日の順太郎さんが山野を跋渉した殺生(鉄砲猟)の話から毛バリの巻き方まで、この一夜は、私の釣り人生において貴重な一夜となったのである。

 この順太郎さんとの出逢いを機に、私と田中家との交流は急速に頻度を増し、釣りのゆきしなに寄っては、帰りにまた立ち寄る、といった案配で、思えば、この時以来、私は順太郎さんを師と仰ぎ、テンカラの途を一途に歩み始めたのであった。

 私にしてみれば、順太郎さんの釣り姿を、師のテンカラを、一度は見せて貰いたいという一念があった。だが、余程のことがない限り山仕事を休む人ではなかったため、その釣り姿を終生一度も見る機会に恵まれなく終わってしまったことが残念である。しかし、以来幾度となく夜語りに聞いたテンカラの話は、私をますますテンカラの世界に引きずり込んで余りあった。とりわけ順太郎さんがテンカラの師と信奉した篭作との、テンカラをめぐってのさまざまな葛藤が出色である。

 

 篭作は、篭造りのかたわら鳥矢場(野鳥捕獲場)を持ち、閉期には片手間に職漁もやるテンカラの達人であった。「それは見事な毛バリ釣りだった」と順太郎さんは述懐し、「小来川筋では、篭作抜きではテンカラを語り尽くせぬ」と、事あるごとに語って聞かせたものである。「変り者」として近在に名の通っていた篭作は、釣り姿はもちろんのこと、毛バリ、仕掛けに至るまで、他人には一切見せぬ人であった。釣り場に通う時は、釣りザオを片手に、毛バリを掌に隠して足早に立ち去る程の人だったという。そんな人柄であったため、順太郎さんも、いつもはその姿を遠眼でちらりと眺めた程度で、ついぞしみじみと手近で見たことはなかったらしい。

だがある日、偶然にも順太郎さんはこの篭作の秘密の毛バリを手に入れることに成功する。この件に話が及ぶと、順太郎さんの語り口はにわかに熱が入り、得意満面となった。
 

 それは順太郎さんが所帯を持って間もなくの、昭和四年のことである。当時、杣仕事をしていた順太郎さんが、ある日、飯居の在所の上手にある大滝、小滝の対岸の伐採を終えて家路を急ぐ道すがら、ふと渓を覗くと、小滝ノ淵で篭作が盛んに毛バリを振っていたそうである。

常日頃、心ゆくまで篭作のテンカラを見てみたいと思っていた矢先、これはもっけの幸い、チャンス到来とばかり、見晴しのいい高所に陣取って、傍のヤブに身を隠し、篭作のテンカラをじっくりと盗み見る機会に恵まれた。

後のヤブから順太郎さんが息を殺して覗き見ている……。そうとはつゆ知らぬ篭作は、釣りに没頭して忘我の境にある。順太郎さんは、初めて身近に見る篭作のテンカラに目を見張った。まるで手品でも使っているのかと思う程の釣れ方に、思わず度肝を抜かれたそうである。

淵の緩い流れにヒョイと毛バリをうち込んではパッと合わせをくれ、ヤモを次から次へと掛けては抜き上げた。順太郎さんが見ている僅かの間に、小滝ノ淵で三十尾程を釣りあげてしまったという。

 

これを見ていた順太郎さんには、この時、篭作が見事な手品師のように見えたらしい。篭作の妙技にすっかり魅了され尽くし、「息をするのも忘れる程だった……」と、感慨深げに眼を輝やかせて語り聞かせた。「あんな見事な釣りは、ほかにはながっぺなァ」と、順太郎さんをして言わしめた篭作のテンカラは、聴いている私も思わず息を殺していた程で、ホッと一息ついた途端、「まさに神技だ……」と順太郎さんはつけ加えた。「あァ……。おれもあんな釣りならやってみてェ」

この時、順太郎さんは心底そう思った。

はからずも、手品使いのような篭作のテンカラをつぶさには見たが、肝心かなめの毛バリそのものは、遠目とあって皆目見当もつかない。「あのハリ一本だけでもいい、貸してくれるなら借りてェなァ」と思ったが、なんせ名にしおう篭作の事とあれば儘になる筈はない。

が、この時、山の神が順太郎さんに味方をしたのだそうである。「篭作には悪りィが、奴さん、ハリを木に引っ掛けちまったんだい」

順太郎さんのそんな願いが山の神に通じたのか、釣り座を替えて五、六歩上手に移動してサオを振り上げた途端、頭上を覆う雑木の枝に篭作が毛バリを引っ掛けたのである。「やった‼」これを見て順太郎さんは秘かに心の中でほくそ笑んだ。

見れば、絡んだ毛バリを外そうと、篭作は躍気になっている。下手に廻ったり、上下に枝を揺さぶったり、苦心惨憺している様子を見かね、順太郎さんは何度か腰に付けている山鉈に手をやりかけたが、これをグッと怺え、心を鬼にして息をひそめて見守った。

登るには細すぎ、さりとて、へし折れる程の太さではない。とうとう怺えきれずに業を煮やした篭作は、これが最後とばかりにミチイトを強く引っ張った。

無情にも、篭作の仕掛けはミチイトの途中からぷっつりと切れた。頭上にわずかに垂れ下がるミチイトを、篭作は恨めしそうな表情で眺めつづけた。諦めきれず、ついには木枝に垂れ下がるミチイトを釣りザオの先で突いたり絡めたり、大奮闘を開始した。

それでもようとして外れない絡んだハリを、やっと諦めるつもりになったのか、篭作はとうとう帰る支種をみせ始めた。「しめた!」順太郎さんは胸の中で大きくそう叫んだ。

 足元もおぼつかなくなった夕暮の急崖を、樹木をたよりにつかまりながら引き上げていく篭作の後姿を見送った順太郎さんは、脱兎のごとく駆け下りて、頭上に垂れ下がっている道糸を目印に、太股くらいの太さの雑木を腰鉈で他愛なく切り倒したのである。

 夕闇が忍びよる渓際で、木枝に絡まっている毛バリを手にした時、順太郎さんはいい知れぬ感動で手がふるえるのを覚えた。

毛バリを手にすると、後生大事に指に巻きつけ、一目散に家に飛んで帰った。

明かりの下でしげしげと眺め入る篭作の毛バリは、思いのほかあっさりとした出来映えであったという。
袖型のハリに淡い黄色のゼンマイ綿毛をあしらった胴巻きで、蓑毛は茶のニワトリの羽毛を巻いた至極粗末な毛バリであったのが、ついさっき、篭作を魔術師のごとく目の当たりにした順太郎さんには少々意外だった。これが先ほどのようにヤモが食い付くハリなのか?と、不思議でならなかったそうである。

 

 ミチイト(テーパーライン)もまた簡単なもので、順太郎さんを驚かせた。これは馬素七、八本で撚りあげた物を二間半(四·五メートル)の延べザオ一杯に使っていた。ハリは木綿の水糸が二尺あまり、あれほど強い願望の果てに手にした毛バリの粗雑さに少なからず落胆した次第だった。

 

しかし、偶然にも手に入れた毛バリで始まった順太郎さんのテンカラは、いずれにしろ、立派に篭作のテンカラを継承した事になる。えてしてテンカラのごとき個人技の世界での伝承というものは、こんな形での継承の成立が少なくないのであろう。 

 この篭作にしてからが、大正の初めの頃に、日光地方に昔から伝わってきた毛バリ釣りを、誰に教わるでもなく、見よう見真似でもって習い覚えたものだと、後になって、順太郎さんに語ったそうである。

 

 

 

 

 

 

小来川筋だけでも百年に余るテンカラの歴史がある。

地の利というべきか、朝な夕な、また現在とは雲泥の差の魚影にも恵まれ、現在の一般的な観念からは望外の条件と環境の中で育まれてきたテンカラだけに、この日光テンカラを継承するテンカラ師の存在が、今は数えるほどの人数であることは寂しい。

 しかし、ここに来て、日光地方にとどまらず、県南地方から県外にまで継承者が斬増してきたのは、何よりも順太郎さんの潤達な人の善さの賜物ではなかったろうか。

 映えある日光テンカラの田中順太郎門下の末裔にあって、私なりに努力していくのが

亡き順太郎さんへのはなむけのような気がしている。 

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故 田中順太郎氏

*写真提供 田中勇 氏

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黒川(西小来川地区)の様子

下流域は里川であるが、上流域は見事な渓相となる。

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黒川(西小来川地区)の様子

小滝、大滝周辺はさらに透明度も高く、野趣あふれる渓相となる。

黒川(西小来川地区)にある大滝の様子

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黒川(西小来川地区)にある小滝の様子

篭作氏から田中順太郎氏へ日光テンカラが伝承された地とされている。現在では、小滝のすぐ上流に堰堤が設置されている。

故 田中順太郎氏が使用していた毛鉤やゼンマイの説明をする田中勇氏

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故 田中順太郎氏が使用していた毛鉤

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謝辞

「新編 渓語り」の著者である瀬畑雄三氏はもとより、瀬畑孝久氏には、本サイトへの記事の掲載の許可をいただくと共に、貴重な写真や資料をご提供いただいた。黒川漁業協同組合や小来川の住民の方々には、地域に伝わる日光テンカラ(毛ばり釣り)にまつわる歴史や人物について数多くの情報を提供いただいた。おじか·きぬ漁業協同組合の皆様には、小来川テンカラ専用区の運営方法や規則についてアドバイスをいただくと共に、実際の漁場づくりにもご協力いただいた。本サイトでの記事の利用等については、釣り人社の方々にアドバイスをいただいた。最後に、この企画に賛同し、休日も惜しまず小来川の日光テンカラの普及や釣り場作りにご協力いただいた「小来川の日光テンカラをつなぐ会」メンバーの皆様には心から感謝申し上げる。

 

小来川地区の周辺施設、イベント、アクセス方法についてはこちらのサイトをご覧ください。

日光の隠れ里 小来川(おころがわ)

最新情報など、テンカラ専用区を管轄する黒川漁協公式Facebookページはこちらをご覧ください。
​黒川漁協公式Facebookページ

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